第6代甚太夫〜第10代先之丞の元菩提寺 | 金沢武佐 広済寺 | 2006/11/5 |
武佐山 広済寺由来 <パンフレットから引用> 金沢市扇町12−21 TEL:076-61-4609 |
尾山御坊と広済寺 創立は、文亀元年(1501)3月15日に蓮如上人の命を受けた江州広済寺十代厳誓房祐念の二男祐乗坊が、本山の別院尾山御坊の看坊職として派遣せられたのが初めである。 江州広済寺(滋賀県近江八幡市)は、聖徳太子の勅命によって創建せられ、寺号は経文の「広く衆の危難を済(タス)く」からとったものである。尾山御坊は、金沢城の地で、田井村の百姓の草刈場であったのを、蓮如上人が米六石で買取られ、本丸のところに御堂が建ち、北陸地方の浄土真宗を統率し、布教と行政を行った。 看坊祐乗房に引続き二代祐念房、三代祐盛房にいたる八十余年間は、加賀は浄土か極楽かと、他国からうらやまれる平和な善政が続いた。 御坊陥落と内川の里 天正八年(1580)となった時、本願寺を敵とする織田信長の命を受けた柴田勝家が、越前から軍を進め、先陣佐久間玄蕃盛政のため、御坊は陥落したのである。盛政は場内にあること三年で、江州賎が嶽<シズガタケ>の戦に破れ、仏罪てきめん秀吉軍の捕虜となって命を絶ち、城は前田利家の入城となった。 看坊祐盛房は逃れて内川郷の山中に難を避け、村民と共に宗門を守った。今も山川・別所・小原・平栗・新保 等に残る檀家によって昔の名残を留めている。 武佐の御忌<ギョキ>に蛇が詣る 尾山御坊の陥落で、内川郷に難を逃れた三代看坊祐盛房。四代祐玄房を経て五代祐益房の時、即ち寛永十七年(1640)に、三代藩主前田利常公から安江郷に寺地を、次いで現在地を賜って移転し、毎年蓮如・実如両上人の追悼法要を営み、御坊から伝わる宝物の開帳を行ったので、人々は「武佐の御忌」と呼んだ。この御忌には、石川門の外で百間堀上にある御坊の遺跡「おちょぼが井」からその昔朝夕仏に供える水を汲んだ当寺の侍女おちょぼが、雲を呼び雨を降らし、蛇体となって宝物にお詣りすると言われ、三月一日から三日間の御忌には必ず天気が悪くなり雪が降ると伝えられ、多くの善男善女が門前市を開いたと言われている。 一向一揆と政親忌 加賀国北半分を領し、真宗高田派と姻戚の富樫政親と本願寺が支援する富樫泰高両家の勢力争いを一向一揆と呼んだ。 長享二年(1488)政親は高尾山で敗死したが久しきに亘る富樫氏の善政を追慕する僧俗によって六月九日の命日を忘れず政親忌が営まれている。 |
過去帳の拝見 |
事前に電話でお願いしてあったので住職夫人は過去帳を準備していてくださった。今回第6代甚太夫から第10代先之丞の記帳が確認され、東京で亡くなった母八百の記帳も改めて確認できた。水子や早世した子供や女性たち計9名が新たに確認され、明治45年に父甚太郎の50回忌に遺骨を東京に移し、明治28年に東京で亡くなった母八百と合葬し、先祖累代の墓も移す。先代住職ご母堂は「子供の頃に櫻井家のお墓を東京に移す事を覚えていた」と家人に語られていたと伺った。 |